December 15, 2009

シャーペンの芯

日本の品物の質はやっぱり高いと思う。特にやはりMADE IN JAPANの文房具などは最高であるとつくづく感じる。

日本で、シャーペンの芯なんかもう何年も買っていなかった気がする。それは単に、減らないからである。あんなに減らないのになぜ40本入りとかなんだろうと不思議に思ったりさえもしていたくらいだ。そんな私とシャーペンの芯なので、ここメヒコでのその「減り」の早さには本当に脅威的である。

「なんでや?!」と考えていると、ノートの紙の質と芯の質の両方があまり良くないからである。まず、シャーペンの芯はHECHO EN COREA(MADE IN KOREA)なのだが、これのよく折れること、折れること。そしてノートはHECHO EN MEXICO(MADE IN MEXICO)で、芯が食い込む食い込む。私は筆圧が強いので、その減り方ったら、折れ方ったらもう異常なんである。鉛筆もよく使うのだが、鉛筆もすぐに先が丸くなってしまう。濃さの薄いものにしたら減りの速度は落ちるが、今度はノートに書いた文字が薄くて見えないということになる。そう言うわけで、HBくらいの鉛筆を猛烈な頻度で削りながら使っている。

これに関してイライラしているのかといえばそうでもない。この質の悪さがとてもこの国らしくて、期待を裏切らない感じがほほえましくすら思える。そしてなにより、鉛筆が減る様子は、なんだかとてもいいんである。つまりはただの文房具馬鹿である。

December 10, 2009

a mano

一人でぼちぼちと歩きながら、セントロセントロまでやってきた。まずは休憩である。私が、メヒコの、というか日本以外の国でいいなと思っていることの1つに、町の中にもベンチがあってそこに腰掛けて休めるということがある。日本では、ふと「外で本が読みたいなぁ」と思っても、なかなかそのへんの公園で、ほな読書でも、と言うわけにいかない。だから私は、海のほうまで行って、テトラポッドの上で一人ぼんやりと読書をしていたりした。

広場にたくさんベンチがあって、それぞれ思い思いに過ごす空間にいるのはとても気持ちがいい。さすがセントロセントロなので、大きな道路がすぐ脇を通っていて、交通量も半端なくて忙しい感じがするのだけれど、それでも、ベンチに座っている人たちのほうに目をやれば穏やかなもんである。読みかけの本を取り出して、本を読んだり、人間観察をしたりして小一時間を過ごした。靴磨きのおっちゃんや、待ち合わせのために待っていて連れがきたときに見せるめちゃくちゃうれしそうな顔や、おそらくゲイだというカップルを見つけてはにやにやとしてしまう。

十分休憩を楽しんだので、たぶんこっち、と勘のみでまたすたすたと歩き始めた。雑雑としたエリアに誘われて、キッチンレリア(台所用品屋さん)や、ベルトレリア(ベルト屋さん)を冷やかしながら歩いていると、やはりこの雑多な感じは、メルカード(市場)に通じていた。市場は3階建てで、まず入ったところがちょうど3階だった。3階は、靴やらDVDやらが売ってある。ものの多さに圧迫感を覚えて、しかもまた「アミーガ!何か探しているのか??」攻撃に耐え切れず、2階、1階へ。1階はもっと観光客向けの雰囲気がして、お土産になりそうなものがたくさん売ってあった。私は、ベルトとかばんがほしかったので見て回ったけど、もひとつピンとくるものがなかった。

せっかくなので、腹ごしらえでもしていくことにした。名前は忘れたけど、おいしいスープを食べた。スープを頼むともれなくトルティージャがついてくる。カウンタに座ると、目の前でそのトルティージャを焼いているのが見えた。生地を手動のプレス機みたいなもので伸ばして、鉄板の上に置く。両面を焼いたら、どんどんとお客の方に運ばれていく。歩き回ってすっかりのども渇いたので、ハマイカのジュースも飲んだ。うまい。私は一人暮らしなので、普段はなかなかメヒコ人がメヒコ料理を食べている姿を見ていない。だから、適当にちぎってトルティージャを食べていたのだけれど、メヒコ人たちは、くるくると巻いて、それをスティック状にして食べていた。……ので、ひそやかにそれを真似して食べてみると、なるほど、食べやすい。スープのときに食べるトルティージャは、巻くに限るな、と妙に納得しながら食べた。

それから、カテドラル(でかい教会)の向かいの広場の地下にあるプラサに行ってみることにした。前、平日に覗いてみると驚くほど開いている店が少なかったのだが、その中にとても気に入ったベルトを売っている店があったのだ。でかい市場の方で惨敗だったので、このこじんまりしたところをみて落ち着こうという魂胆である。しかし、前行った時には「入れ墨」と書かれたタトゥーの見本がおいてあるタトゥーやさんがあって、その前で悪そうなキッズがたまっていたので、カツアゲとかにあったら嫌だなぁ、と思いながら階段を下りていった。

平日よりもたくさんの店が開いていて、市場よりも暗いのだけど、市場のようなあの「アミーガ!!」攻撃がないから、よっぽど落ち着く。店番をしているのも、中学生か高校生くらいの店舗もあって、そんなところをうろついているアジア人は他に見当たらず、ガン見の洗礼を受けるのである。まぁ、そんなことはもう慣れっこなので別にいいし、なにより、こっちのプラサの方が心をくすぐられる手作りの品々が多い。ベルトもやっぱりこの間見つけたやつが一番いい。糸で刺繍をしたものを、皮に縫い付けているのだが、色が鮮やかでとてもきれいなやつである。やはり、手作りのものに魅力を感じる。まだ売れていなかったので、買うことにした。店番の女の子に「何人??」と聞かれたから「日本人やで」というと、「日本語で私の名前を書いて」と頼まれ教えてあげた。代わりに私もスペイン語の単語を教えてもらったり、しばらくきゃっきゃと話した。

かばんも、これまた刺繍のもので気に入ったものがあった。1回り目と2回り目で店番の人が違って、違う値段を言われた。どうやら、1回目に聞いたときはその店のお兄ちゃん(どう見ても10代。)の代わりに店番をしていたから、適当に値段を言ったらしい。だから本当の値段よりも安かったのでお兄ちゃんは不服そうだったが「さっきお姉ちゃんが言った値段にしてください。お願いします。お願いします。」と連呼しているとついに「オッケイ」を出してくれて、まんまとまけてもらった。いやぁ、ええかいもんをした。

ハンドメイド。さあ、次はどんな作品にめぐりあえるのだろう。そのためには、やっぱり街歩きをしないとだめだなぁ、と改めて思った。

レリア

この間の土曜日。待ち合わせをしていた人と、連絡の行き違いでうまく会うことができなかった。いつも週末はだらだらしているから、土曜日の午前中に外出しているというのは極めて珍しい。家に引き返すことも考えたけど、天気もいいことだし、これは一人でのこのこと出かけるのにはもってこいだと思いつくなり、足はそのままバス停へ向かう。

結論から言えば、やっぱり街歩きは楽しいなぁ、と言うことになるけど、その一人街歩きの中で見つけた素敵なメヒコの顔について書こうと思う。まずは、「~レリア」について。

いつもと違うところでバスを降りて、適当に歩き始めた。最終目的地は、メルカード(市場)である。メルカード、行くのは2回目である。あの「アミーガ!!!何を探しているんだ?」「アミーガ!!!帽子買っていかねえか??」と猛烈に声をかけられるのに耐えられず、足がなかなか向かないでいたのである。はっきりした場所はわからないけど、方向はわかっていたから、まぁ、たどり着くでしょうと適当に歩き始めたその道は、「本気紙レリア」エリアだった。

スペイン語で、「~屋さん」と言うのは、~ríaというようで、papelería(papel:紙 + ría = 文房具屋さん)、pescadería(pescado:魚 + ría = 魚屋さん)、carnicería(carne:肉 + ría = 肉屋さん)といった具合である。そう言うわけで、私は「~屋さん」と表現するときには、何でも"レリア(本当なら、リア、をつけるべきだけど、パペレリアの、レリア、をとって)"をつけて呼んでいる。だから、"紙レリア"とは、私のオリジナル単語で、意味は「紙屋さん」である。



紙レリアエリアは、すなわち紙の問屋街のことになるが、紙レリアにまぎれて印刷工場もたくさんあった。昔ながらの機械ががしゃこんがしゃこんと動いている様子を、ちらちらと見ながら歩いた。人通りは特になく、穏やかなもんである。

紙レリアエリアを抜けると、大きな通りに出たのでセントロセントロ(セントロの中心部)を目指して方向転換。メヒコは、専門店の宝庫である。私はそれがとても気に入っている。日本では、最近は何でも総合化してしまい、専門店と言うのが減ってきているように思う。だから、京都の街を歩いたときに「たたみ屋さん」があったり「仏具屋さん」があったり「和紙屋さん」があったりすると、わくわくしてしまう。そこには職人がいて、文化がある。そう感じるからだ。メヒコで見かける専門店は、例を挙げると、糸レリア(糸屋さん)、カレンダレリア(カレンダー屋さん)、お菓子レリア(お菓子の問屋)、布レリア(布屋さん)、カードレリア(カード屋さん)、べべレリア(赤ちゃん商品屋さん)、フィエスタレリア(パーティグッズ屋さん)、ビニールレリア(ビニール商品屋さん)、屋台レリア(屋台に必要なものを売る店)、ピニャータレリア(ピニャータを売る店)……などである。カレンダーだけを専門に扱って大丈夫なのか?!と要らぬ心配をしてしまうほどだが、それらのこじんまりとしたたずまいの店の前を歩くのがとても気に入っている。なんでも合理化してしまってまとめてしまうことが決していいことではないことに気付かされる。

December 07, 2009

dahh!!

今日は、またまた言語についての話。やはり自分が今一番格闘していることの一つだから、どうしてもトピックに選んでしまう。そうして少しでも向き合おうというわけなのだが、最近もっぱら感じるのはフラストレーションである。

もちろん、そればかりでもないから、さきにうれしかったことを上げるならば、この間旅行会社に安いフライトでも調べてもらおうと思って行ったとき、英語に頼らずにいけたことである。夏に同じく旅行会社とエアラインに話を聞きに行ったのだが、そのときはスペイン語がしゃべれなすぎて、英語のわかるスタッフが対応してくれたのだが、今回は、たどたどしいながらもスペイン語とジェスチャーと顔の表情だけで用事を済ますことができた。だから、これは○である。

一方の凹むこと、上げだすときりがないけれど、一番凹むのはスペイン語のわかる友だちのほうに話しかけられることである。そうする理由は簡単、そうしたほうが話が簡単に伝えられるし理解できるからである。四苦八苦して何とか知っている単語や英語で説明しなくても、ポンと一言日本語に訳してもらえれば、あるいはスペイン語でつぶやいてもらえれば、それで「??」は解消されるのだ。そのときに感じる自分の無力さったらない。スペイン語のできる友だちは、日本で4年も勉強していたのだから、自分よりもできて当たり前。わかっている。わかっているけど、同じ土俵で扱ってもらいたいという図々しさが、近頃の私にはあるようだ。厚かましさのほうが勝って悩みと呼ぶには被害妄想が過ぎるかもしれないが、これは地味に本気で凹む。この気持ちのジレンマもあいまって、かなりのフラストレーションを感じているのである。

December 03, 2009

好きな言葉

言語と関わっていると、好きな単語や言葉と出会う。その場合、「意味が好き」なのか、あるいは「言葉の響きそのものが好き」なのかに大別される。後者の場合、ネイティブスピーカーからしてみると、「は?!なんで?!」と思われることがある。

例えば、私の一番好きなドイツ語は「punkt」である。意味は、「点」である。なぜ好きかと聞かれても、響きがかわいいからとしか答えようがない。そう言うくだらない理由で好きな言葉は人それぞれあるはずである。これが結構おもしろかったりするから、日本語を学習している友だちがいると「一番好きな日本語の単語は何??」と聞いてみたりする。ある友だちは、「あばら骨」と言っていた。理由は、「あばら骨」と発音する時の口の動き方がたまらなく気持ちいいらしい。「あばら骨」の発音なんて意識してしたことがないけれど、それを聞いてからゆっくりと発音してみると、破裂音が多くてなんだか言いたくなる言葉かもしれない。

このような「なんか知らんけど好き」と言う言葉に出会うのは、語学の習い始めに多いような気がする。今まで知っている言葉の響きとなんだか違っていて、妙に引っかかるからだろう。前置きが長くなってしまったけど、そんな無性にいいたくなる言葉に今日出会ったので、早速紹介しようかというわけです。

その単語とは、"montón"である。「たくさんの」という意味らしい。モントン、もんとん、モン豚……。後ろの"o"のところにアクセントがあるから、もんんという感じで、なんかわざとなまってみたような感じである。それなのに、"ん"の音が2回もあるから、なんかフランス語っぽさ(ここからはあくまでもイメージ)さえ漂っている気がする。巻き毛のおっさんたちが、コーヒーカップを片手に小指でも立てながら物憂げに「モントン……」とかなんとかつぶやいていそうである。(これは完全に妄想)

明日から、なんとかこの"monón"を使って会話をしてみたいもんである。