November 30, 2009

Gel

メヒコ人の象徴といえば、「ジェル」である。メヒコに来て以来、「メヒコ男性=ジェル」のイメージがすっかり定着した。大人であろうが、子どもであろうが、そして時には女子もジェルでパシッと頭をきめる、それがメヒコの男ってもんでしょうが、と言わんばかりにシャンプー売り場の隣には「ジェルコーナー」が必ずある。それを真剣なまなざしで選んでいるおっさんを見かけることもしばしばである。だからこそ、メヒコには日本で言うところの「ワックス」なんていうものは存在しないと思っていた。ワックスなんぞで毛先を遊ばせるような人たちではないと思っていたのだ。

しかし、スタバの店員とこないだ話していて彼はジェルではなくワックスで毛先を遊ばせていることが判明した。「ほれ、触ってみ」と頭を差し出されたので触ってみると、カチコチしていなくてびっくりした。フンワリしているではないか!!!!(まぁ、見てくれは、遊ばせていると言うよりも、ジェルで髪の毛を立てているのと変わらないのだけれど。)

ジェル以外の整髪グッズがあった事実にメヒコ国内カルチャーショックを受けてしまった。

手のあげかた

これを目下研究中である。何をそんなに日常生活で、手を上げることがあるのか、と思われるかもしれないけど、メヒコではバスを止めるために自分の手を上げて「止まってくれ!!」と合図しなければならない。そうしないと、いくらバス停にいてもバスは止まらずに通り過ぎてしまう。逆に、バス停じゃないところで手をあげてみると止まってくれることもある。(だいたい、未だにどこがバス停なのかよくわからないので、とりあえず角に立って手をあげてみることにしている。)だから、かなりの頻度で手をあげることになる。手のあげ方は、発表する時のようにパーで上げるのではなく、人差し指をピンと立ててあげる。

手をあげても止まってくれない時もあるので、とりあえず「私!めっちゃ乗りたいんですけど!!!」をアピールするために、かなり大げさに、そして張り切ってあげていた。スルーされるときは、てっきり私がメヒコ人じゃないからなめられているのかと思っていたけど、どうやらバスの運転手がお昼ごはんを食べに行きたいとき、早く家に帰りたいときはいくらたくさんの人がバス停で手をあげていても無視視して通り過ぎるようだ。

今までは、止まってほしい一心でピンと腕を伸ばしていたのだが、この間バスを待っていて、メヒコ人の友だちがバスを止めるときのしぐさのかっこよさに肝を抜かれた。もちろん人差し指は立てているのだけれど、その手をあげるしぐさがさりげなすぎたのである。「これでバスは止まる」という自信と言うか、当たり前さがその腕で体現されていたのだ。「うおおおお、かっこえええええ!!!!」と思って、早速一人のときにそれを真似してみたけれど、あっけなくスルーされたので、2台目が通ったときはまたいつもの通り必死でアピールする作戦に戻した。

バスの中から、他の人がどういう風に手をあげているのか観察していると、やはり「ピンと腕を伸ばす」タイプと、「ひょいと適当に手をあげる」タイプの人たちに分けられる。断然後者のほうがかっこいいのである。私も後者の手のあげ方で止まってもらえるように、今から練習に行ってきます。

November 29, 2009

多面性

メヒコ人の名前は、とにかく長い。「ファーストネーム・ミドルネーム・名字・名字」と言う感じで、4つくらいある。名字のところは、母親の名字と父親の名字を取っているようだ。名前が長いくせに、名前のバリエーションが少ない気がする。Luis、Jorge、Gerardo、Jesus、Marco……など、2人以上あったことのある名前を思い出すだけでもこんなにもたくさん思いつく。
ところで、この間友だちとメヒコの人々の多面性についての話になった。いろんな人がいるなぁ、と全体的に見たときにもこの国の人の多面性を見ることができるけど、個人に焦点を当ててみてもその中でも多面性を感じるなぁ、と言うことになったのである。そしてそれは名前の長さに起因してるのではないか、と言うのが私たちの意見である。

名前が長いから、よばれ方はさまざまであるはずだ。ファーストネームでよばれるかもしれないし、ミドルネームでよばれるかもしれない。あるいは、ファーストネームを縮めてよばれるかもしれないし、ファーストネームとミドルネームをくっつけて呼ばれている人もいるかもしれない。それらの愛称・あだ名、特にファーストネームでよばれるかミドルネームでよばれるかは、個人間でというよりもコミュニティごとで異なるのではないだろうか。例えば、家ではファーストネームで呼ばれているけど、友だちのグループからはミドルネームで呼ばれている、また別の友だちのグループからはファーストネームで呼ばれている、などである。これは何もメヒコだけではなく、日本でもよくあることだ。名前で呼ばれるか、名字で呼ばれるか、はたまた何かあだ名をつけられてそのあだ名で呼ばれるか、どのようによばれるかによって、そのコミュニティあるいは集団における「自分」と言うものが多少は違ってくるはずだ。それが個人の多面性だと思うのだけれど、日本人が名字と名前と言う2つの名前しかもっていないのに対して、4つの名前を持つメヒコ人である。特に、下の名前(given name)が2つと言うのは日本人にはないことなので興味深い。しかもその下の名前が同格なんである。そのいずれで呼ばれるかは、何によって決まるんだろうか。例えば日本人の名前で、花子・由美という2つの名前があるとする。花子と言う名前に抱く印象と、由美と言う名前に抱く印象はそれぞれ異なるはずである。それがもしも一人の人につけられていたらどっちで呼ぶのであろうか。一方で花子と呼ばれている自分がいて、また他方では由美と呼ばれる自分がいる状況は、自分にどのような影響を与えるのだろうか。その人本人は一人なわけだから、別に何もかわらないと考えられるかもしれないけれど、もしもそれが多面性を与える要因になっているならば、「名字で呼ばれるか、名前で呼ばれるか」による多面性とは異なった多面性がみられるのではないか、と想像する。

そんな風に考えていると、名前って不思議なもんだなぁ、と思う。生まれてきた本人は選べないのである。名字なんてものは代々と祖先から受け継がれて、名前もつけてもらう。それでも、誰かの名前を聞いたときに「ああ、○○っぽいなぁ!!」と妙に納得することが多々あるからだ。

まとまりがなくなってきたので、この話はこの辺にて。

November 26, 2009

ヘドロ

最近、洗面台の水の流れがよくなかった。配管とシンクをつなぐモノはプラスティックでできていて、それは恐ろしいほどに汚い。なので、爪楊枝やらめんぼうやら布やらで、その汚れと言うか、にちゃにちゃした部分をとってみた。すると、そのにちゃにちゃした部分が要だったのか、ある日水漏れしだした。えらいこっちゃ、と思い、補修剤で修理を試みた。DIYである。そんないかにもつくりの甘そうな洗面台である。流れが悪くなるのもなんとなく想定の範囲内の出来事だと言える。

流れの悪さは、顔を洗っているだけでシンクの上から水が溢れそうになるくらい詰まり、結構重症である。もしかしたら、補修剤が管の中にも入り込んで、水の通り道を狭めてしまっているのかもしれない。とりあえずわからないなりにも、洗面台の下に座り込んで、その「プラスティック」のモノを触ってみた。相変わらず汚い。がしかし、上下左右に動かしているうちに水漏れがひどくなり、幸いにもそれがきっかけで、プラスティックのものをパーツごとに離すことに成功した。

……中から出てきたのはヘドロである。もちろん泥なんかではないことはわかっている。しかし、こんなものはどぶ川だ。こんなものが詰まっていたのか。そりゃ流れも悪くなるはずだ。予想以上のハードコアな代物が出てきたけど、途中でやめるわけにもいかず、ヘドロ処理をするはめになった。家の中にアリがどこからともなくやってきたり、ヘドロが出たり、電気を使いすぎたら呼び鈴が勝手になったり、全くこと欠かない家だ。優雅な一人暮らしとは未だ程遠く、サバイバルな毎日である。

あ、でも、ひとつ。このアパートには屋上があるのだけれどそこで日向ぼっこをしながら空や風景を眺めながら、コーヒーを飲みつつ読書をするのが最近の楽しみでもある。なかなか日本ではできないアパートの暮らし方かもしれない。だから、ヘドロが出てもこのアパートに住みたい気持ちは揺るがない。

言語

最近専ら恐怖に感じていることは、英語力の低下だ。自分でもびっくりするくらいにその能力が落ちていくのがわかる。かといって、スペイン語がめちゃくちゃ上達したかといわれればそんなことはないのである。困った。

低下している原因として考えられるのは、まずなんといっても十分に使っていないということ。やっぱり言語は生き物だから、使わないことには失うことは簡単なのだ。メヒコの人々は、英語がさほど得意ではないらしく、こちらのスペイン語が怪しいのがわかるとすぐに「英語しゃべれる??」と聞いてくるが、結構めちゃくちゃで、結局気付けばスペイン語で話されていたりもする。それに加えて、「はい、英語少しわかります」と答えておきながら、私はかたくなにへたくそなスペイン語でその人たちと会話を続けようとしている。

じゃあ、スペイン語が上達するのでは?!と思われるかもしれないが、蓄積された「基礎」は皆無に等しい。英語のように学校で一から文法を教わったようなスペイン語の基礎が、私にはない。それを独学で同時進行しているが、流暢なコミュニケーションと言うレベルには程遠く、がっくりする毎日だ。しかし、幸いにも読むこと調べること知らないことばかりなので、「オモロイ」と思いながらスペイン語に取り組めているから、英語力の低下ほどの悲壮感はない。これは地道にするしかない。

そして、日本語である。さすがは母国語。全然忘れそうな気配がない。少しくらい忘れてもいいからスペイン語が上達したいと願えども、しっかりと私に身についている。……と思っていたが、先日から三島由紀夫の短編を読んでいて、それを読むにつけ自分の日本語の稚拙さを思い知らされている。漢字も読めないし、熟語の意味もわからない。ちょっとちゃんと読んでみようと、電子辞書を片手に読んでいる。それらの初めて知る言葉の意味のなんと美しいことか。「いや~、三島さん、すごいなぁ。」と、これまたあほのような感想しか出てこないのである。

言語とは一口に言ってみるものの、奥が深い。難しいけどおもしろくて、知っているようで知らなくて、わかったようなわからないようなまったく憎い奴だ。これを何とか操りたいと思うのが、これ人情である。

November 19, 2009

エコバッグ

私は、いつも買い物をするときにエコバックを持っていく。お母さんに作ってもらったお気に入りのやつである。ところが、メヒコのスーパーでエコバックを持っていくと、少しだけ気まずい思いをする。(私が思っているだけかもしれないけれど。)

メヒコのスーパーでは、買うものをどんどんとベルトに載せていく。そしてレジでピッとやってもらう。その先には「商品入れ係り」がいて、袋に詰めてくれる。そして、支払いを済ませてから彼らにpropina(チップ)を渡す。だから、エコバッグを持って行って、「No necesito bolsa(袋要りません)」というのは彼らの仕事を奪うことになるので、いつも少し「悪いなぁ」と思う。でも、日本人の感覚だと、他人にぼんぼんと袋詰めされるのは余計なお世話とも感じてしまうのも事実だ。買ったものくらい自分で入れます!!と思うのだけれど、いかんせんそんなスペースは設けられていないのである。

ところが、この間から3回程エコバッグを持っていくのを忘れてしまった。家に帰って唖然としてしまった。たった3回の買い物で(しかも一人暮らしの)、「袋何ぼほど使うねん?!」という量なんである。スーパーの袋には、「燃やしても有害な物質は含まれていません」と言うような文句が書いてあるのだけれど(たぶん)、質があまり良くなくて重いものを入れるとすぐにちぎれそうになってしまう。だから、商品入れ係たちはわりに小分けに袋に入れてくれるのだ。いくら有害な物質を使っていないといっても、どうせ家に帰ればそのほとんどがごみになってしまうのはいかがなもんか……、と私は思ってしまう。そして、次回からは、エコバッグを絶対に忘れずに持っていこうと心に誓うのであった。(これは余談だが、以前、ある人がレンジで物をあたためるときも、ふたのついた耐熱容器を使うといっていた。そうすればアルミホイルやラップを使わなくて済むし、ごみだって減る。「おおおお!!!ええこと尽くめやん!!!」と、それ以来保存はタッパー、あたためるのは皿、ラップもアルミホイルも買っていない。困ると思うこともさほどない。)

その一方で、ハンドメイドショップでは手作りエコバッグが売られているのを見かけたこともある。エコの時代は、この国にも訪れようとしているのだなぁ、と思いつつ、今後の様子が気になるばかりだ。

November 17, 2009

メヒコの太陽

「メキシコって、一年中暑いイメージやわ~。暑いんやろう??」

と、日本にいる友だちからよく言われる。は、は、は!!!それは、所詮イメージですよ、あなた、最近は長袖なんてものを着ていますからね、と、やはりイメージと実際に住んでみるのでは違うなぁ、と思っていた。

実際、朝晩は冷えるし、昼間も家の中にいて風が吹いたりするとひんやりと感じたりしていたので、メヒコもめっきり秋になったもんだ、と過ごしやすい気候を楽しんでいた。

ところがどっこい、やはり、メヒコの太陽は強かった。週末2日ほど半日くらい外で過ごさなければならないことがあった。じりじりと暑い。肌を刺すようである。しかし、その威力の本当のすごさを感じたのは、翌日である。耳が帽子からはみ出していて、首回りに日焼け止めを塗るのを忘れていたばっかりに、みごとに軽いやけどをしていた。耳も首もずっと熱を持っている。目もなんだか乾いて痛い。完全にメヒコの太陽に皮膚が負けた模様だ。さっきから首にひえぴたをしているのだけれど、明日には引いてくれるのを祈るばかり。

いやぁ、メヒコの太陽はすごいわ。

ご飯の時間

昼ごはんが遅いメヒコ。 レストランが混みだすのは2時とか3時とか。12時くらいにのこのこ出かけても、一応オープンはしているみたいだけれど、準備中を前面に押し出しているので、なんとなく入りづらい感じも漂っていて、店員と思われる人たちが思いっきりまかないを食べていたりもする。

家にいる時は、私は日本タイムで12時とか1時とかにお昼を食べたりするのだけれど、今日は起きてから朝ごはんを食べて、そうじをして、インターネットをしながらばりぼりと「Cacahuates estilo Japonés(日本スタイルの豆)」を食べていた。ピーナツが硬い殻でコーティングされた代物である。日本では見かけないが、商品名は「Karate」といっていかにも日本から来ましたよ、と言う感じである。醤油を使った味付けだから日本ってことにしとくべ!!という安易な発想で「ジャパニーズスタイル」などとうたわれているに違いない。Karateのみならず、数社がこの豆を発売していて、こぞって「ハポネス(日本)」とパッケージにプリントされてある。しかし、なんだかんだ怪しんでもけどうまいので、ちょくちょく買ってはぼりぼりと食べている。珍しく友だちがオンラインだったので、うだうだしゃべっていると、友だちとの待ち合わせの時間が迫っていた。自分で時間を指定しておきながら、すっかり忘れていた。

ややや、昼ごはん、豆しか食べていない……。

とは思いつつ、悪いのは自分。バス停で友だちと合流して、セントロで別の友だちと合流した。誰もその時点で昼ごはんを食べていないことが判明し、結局、そこから昼ごはんを食べることになり、ケンタッキーに行った。時すでに、午後4時である。それなのに、ケンタッキーは鬼のように混んでいて、皆肉をうまそうにもりもりと食べていた。午後4時、これがれっきとした昼ごはん時間である。小腹が空いたからではなく、早めの晩ご飯を食べているわけでもないらしい。ちなみに、ファストフードのハンバーが屋は、ケンタッキー、マクドナルド、バーガーキングとあるが、ケンタッキーが一番安い。日本では、ケンタッキーは高いイメージだけど、どういうわけかここメヒコでは、一番お得感がある。(マクドの曜日別日替わりセットも安くていい。月曜日は、ワカモーレ(アボガドのソース)とトマトがはさんでアルシンプルなものだけれど、日本にはなくておいしい。)それから公園に行って遊んで、帰りに友だちと閉店時間までスタバでダラダラと過ごした。外にいる間は、遅い昼ご飯のせいで、ちっともお腹が空かないのだ。しかし、家に着いたとたんにやはり腹が減る。

……小腹は空いているけど、今から晩ご飯を食べる気にも作る気にもならない。というわけで、残りのジャパニーズスタイル豆をぼりぼり食べている。ああ、豆……。

November 09, 2009

Cambio

メヒコでは、「え~、おつり(cambio)ないよ。」と言われることがしばしばある。

先日郵便局に行って、200円分くらいの切手を買おうとして、1000円くらいの札を出したら、そう言われてしまった。……800円の釣りがないとはどういうことや?!?!と思ったが、急いでいたので「じゃあ、また後日に来るから。」と郵便局を後にした。

そして数日後、またまた同じ手紙を持って郵便局に行った。今度も小銭はなかったのだが、今度は200円に対して500円くらいの紙幣で支払いを試みた。すると、まさかまさかの

「え~、おつりないよ。」

であった。300円の釣りがないって、あなた、どういうことですか?!?!仮にも、あなた、ここ郵便局ですよ!!!

これにはさすがに、「え~、困る。」と顔で訴えて、そして、受付はいつもの兄ちゃんで日ごろより「あたし家が遠いんです。」とアピールしているから、2回も同じ理由で帰らすのははさすがにだめだと思ったのか、同僚の人に細かいお金がないか聞いてくれた。すると、その同僚も「ない」とか言うではないか。……今度こそ、「また来てくれ」と言われる、と覚悟したその時、同僚に何か指示したかと思うと、同僚は奥から小銭がいっぱい入った袋を持ってくるではないか……。

おい!!!!釣り、腐るほどあるやんか!!!!!!!

恐るべし、メヒコ人の口からでまかせ。

November 03, 2009

Dia de muertos.

今日11月2日は、メヒコでは「死者の日」という祝日である。祝日なのかどうか実はよくわからないけど、私は休みであった。死者の日は、日本で言うところの「お盆」のようなものらしく、京都の元田中にあるメキシコ料理屋さんでみた本の中の写真が頭にこびりついていて、楽しみにしていた祝日の一つである。

その写真は、お墓の写真でオレンジや黄色い花できれいに飾りつけられているというものであった。墓地と言うと、日本のあの薄暗い感じのイメージだったので、こんなに派手で華美なお墓があるのかと、その時にカルチャーショックを受けたといっても言い過ぎではないかもしれない。人様のお墓を好奇心だけで見に行くのもどうかと思ったけど、せっかくメヒコに実際にいるのだから、これは見に行っておきたい、と思っていたのだ。

そういうわけで、のこのこと墓地に足を運んできた。墓地へは、電車で向かった。メヒコに着てから電車に乗るのは、実ははじめてである。値段は均一らしく、まず専用のコインを購入する。それをゲートに入れて入場するのだ。そのゲートと言うのが、電車と言うよりは、なんだか動物園にでも入場するような感じで、変な感じだった。でも、ホームは電車のホームで、乗り込むと、やっぱり電車で、なんか日本にいるような気分になった。途中から地下にもぐるので、大阪の中央線を思い出させる感じである。帰りは、混んでいたので御堂筋線を思い出した。それにしても、どうして人は自分の知っているものやところと似ていると結び付けたがるのだろう……。

さて、墓地に着くとかなり広い墓地だった。さすがお盆と言うだけあって、「入口」「出口」がしっかりと分けられてあった。混雑を防ぐためだろう。墓地入り口付近では、骸骨グッズを売っているおじさんがいて、メヒコ感がむんむんと漂っている。すでに、そのことに対して違和感も感じないけれど、日本に置き換えて考えてみると相当ぶっ飛んでいる。先祖の墓参りに行って、その墓地の前でしゃれこうべのキーホルダーが売っていたら、どう思うだろうか……。

中に入ってまず驚いたのが、各墓のでかさ。最近はメヒコも火葬らしいが、もともとは土葬だったようで、墓石のふもとには、人の大きさほどの四角いスペースが各々あった。国民の9割はカトリック教徒と言うだけあって(外務省HPより。)、墓石の大半は十字架であった。中には、「家ですか、これは?!」と言うくらい大きなものもあったり、そうじ道具入れのような形のものもあった。私の想像では墓場全体が花まみれになっているのかな、と思っていたけど入り口付近はそうでもなかった。それもそのはず、亡くなった日付を見てみると相当前だ。お参りに来る家族もいないのかもしれない。


▲一面を花で囲まれた墓。私の予想では、全ての墓がこんな風にデコレーションされていると思っていた。


▲こんなバージョンのもあり。紙でデコレーション。花は少しだけ飾ってあるだけ。


▲「お父さんへ、愛を込めて」というメッセージつきの花でできた十字架。真ん中にはグアダルーペ。


▲家族で集まって、死者を偲ぶ。マリアッチをその周りで演奏している家族もいた。死者が生前好きだった曲を演奏してあげるのだそうだ。それにしても、他の人の墓をイス代わりに……。罰当たりではないのか?!


▲花。黄色やオレンジのダリアや菊が主流だった。中には、造花をかざっているところもあった。


▲墓の上に人が乗れないように「危険」のテープをはっているところがあったのだけれど、これはいいのか?!首に巻きつけて、やっぱりなんか、罰当たり感が満載……。


▲注)墓場です。


▲小さな祭壇を作って飾ってある墓も。パンや、砂糖菓子や、ミニチュアのお供え物のオブジェを飾ってある模様。

今日は、ここ最近の中では特別天気がよくて、しかも日差しのきつい日だった。そんな青い空とまぶしい太陽に白い墓石が照らされて、やしの木が揺れて、遠くからマリアッチが聞こえてきたりカラフルな花やコーラが供えてあったり、どれをとっても日本とは異なる様子で興味深いものだった。ところ変われば、墓場もこんなに違うのか、と肌で感じることができた。

Camion

バスの運転が激しいここメヒコ。今日は、ついに友だちが被害者になってしまった。いつも空いている路線なのに、今日は平日と言うこともあってか混み気味。友だち2人と乗り込んだものの満席だったので、手すりにつかまって立っていた。

「いやぁ~、今日もまた激しいなぁ~。」

と友だちと話しながらバスの横揺れ、縦揺れにに耐えていた。そうしたら急に、つかまっていた手すりががくんとなってこちらに倒れてきた。びっくりしたなぁ~、と顔を見合わせていると、一人様子がおかしい。

「は、歯が欠けた……。」

と友だちが目を真ん丸くして言った。見ると、前歯が欠けていた。かける言葉もなく、「欠け具合がちょっとやから大丈夫やって……!!」というのが精一杯だった。

歯がこんなにもろいもんだとは知らなかった。揺れが激しいからと手すりに必死につかまっていたけど、今度からもそれもよそう……。手すりじゃなくて、いすの方をつかむようにしよう……。

空いてきたので、降りるために(降車は後ろからなので)後ろに移動したら、そこがまた揺れがすごい。ブレーキを踏まれるたび、曲がるたび、本当、飛ぶかと思った。

November 02, 2009

馬鹿はどっちだ。

昨日、友だちと公園に行った。私たちの間で、最近ラルクアンシエル(昔の)がなぜか流行っていて、友だちはギターが弾けるので、ちょいとストレス発散もかねて公園で歌おう、と言うことになったのだ。

10月の最終週にDay Light Saving(いわゆるサマータイム)が終わったので、日が暮れるのがすっかり早くなった。だから、公園に着いた8時くらいはすっかり日が落ちていた。そこでギターをかき鳴らしてもらって、でかい声で3人で歌っていた。ひとしきり歌ってから、いやぁ~、でかい声で歌うのは気持ちがいいもんだ、としゃべったり、ギターをひけもしない私がギターを持ってじゃかじゃか弦をかき鳴らしていると、突然頭の上から何かが降ってきた。何のことやらわからず、「わーーー!!」と声を上げていると、白いTシャツの若い男が走って逃げていった。そして、連れの車にどんくさく乗り込むと、さっさかと逃げていった。

男が去ってから、我々は、炭酸のジュースを掛けられたことに気付いた。髪の毛はもはやねっちゃねちゃである。

何のために?!?!
なぜ?!?!

怒りもこみ上げてくるところだが、謎の曲を謎の東洋人が日も沈んだあとの公園で演奏している状況を加味すると、なぜだかどちらが悪いのか自分たちでもよくわからなくなってきた。

しかし、髪の毛がにちゃにちゃになるから、ぶっ掛けるなら、せめて水にしてほしかった。

ブリトー

メヒコに暮らすことになるのが決まって楽しみにしていたメヒコ料理の一つ「ブリトー」がある。ブリトーは、皮の中に肉やらご飯やら野菜やらが入っているという、日本で言うところの手巻き寿司のような食べ物である。オーストラリアでもアメリカでもこの「ブリトー」はメヒコ料理としてでかい顔をしていた。

アメリカに行ったときに、友だちにWhole Foodsというオーガニックスーパーマーケットに連れて行ってもらい、「ブリトー」を買って食べた。いろいろ入れてもらって、アルミホイルで包んでもらうと、「これはダンベルですか?!」というくらいの重量級食品で、これがめちゃくちゃうまい。メヒコのお隣の国アメリカでこのうまさなんだから、本場はもっとうまいに違いないと期待に胸を膨らませてやってきたものの、どこにもこの私の知っている「ブリトー」とやらは見つからない。

これはきっと、「カリフォルニアロール」的なもんで、ベースこそ日本だが他国でアレンジされて幅を利かせている代物なんだな、とブリトーが食べられない無念さに折り合いをつけて過ごしていた。そして、夏に友だちの結婚式のためにアメリカに行ったときに、「何か今回の滞在で遣り残したことはない??」と最後に聞かれて「ブリトーが食べたい……!!!」をリクエストして連れて行ってもらった。

ところがところが、ついにこの恋焦がれた「ブリトー」にここメヒコにて再会できたのである。この間タコスを食べて帰ろうとしたら、その日はもう店じまいとのことで、代わりに気になっていた軽食堂へ行ってみることにした。いつ見てもがらがらのくせに、ある日貸切でフィエスタ(パーティ)をしていたなんとなく気になっていた店である。人々がほおばっているのは、ブ、ブリトー!!!まさかこんな近くにブリトーを食べられるところがあったなんて、灯台下暗しもいいところだ。店の人はみんないい人だったが、やたらと物を落としまくっていた。おばちゃんは、フォークやらボールやらをがちゃこーんと落としていると思いきや、おっちゃんは鍋を落としていた。しかもその中にブリトーに入れる用の米がはいっていた。どうするのかと思いながら見ていると、米を作り直すでもなく普通に手際よく作っている。そして、

「ちょっと今日は米が少ないけど、今度来たときは米いっぱい入れてもっとうまいからな!!」

と、米をこぼしたことに悪びれる風でもなく持ってきてくれた。(その辺の陽気さはザ・メヒコ。)そのかわりに、肉をたくさん入れてくれたらしく、ボリュームは抜群で、あのずっしりとしたダンベル感もあって私としてはにやにやがとまらなかった。しかも、めちゃくちゃうまい!!!サルサ(ソース)も小皿に入れて盛ってきてくれて、それをつけながら頬張った。それも辛すぎず絶品。メニュー(壁に1枚画用紙で書かれたのが張ってあるのみ)をみると、「カリフォルニア風」と書かれていた。どうやらやはり、ブリトーと言うものは、伝統的なメヒコ料理ではないようだ。でも、おいしいので、どこの何でもいいのだ。近くにブリトーを食べられる店があるということがわかってめでたし、めでたし。


とりあえず、忘れずに写真を撮ってみたものの、本文に差し込む場所がなかった……。