November 26, 2009

言語

最近専ら恐怖に感じていることは、英語力の低下だ。自分でもびっくりするくらいにその能力が落ちていくのがわかる。かといって、スペイン語がめちゃくちゃ上達したかといわれればそんなことはないのである。困った。

低下している原因として考えられるのは、まずなんといっても十分に使っていないということ。やっぱり言語は生き物だから、使わないことには失うことは簡単なのだ。メヒコの人々は、英語がさほど得意ではないらしく、こちらのスペイン語が怪しいのがわかるとすぐに「英語しゃべれる??」と聞いてくるが、結構めちゃくちゃで、結局気付けばスペイン語で話されていたりもする。それに加えて、「はい、英語少しわかります」と答えておきながら、私はかたくなにへたくそなスペイン語でその人たちと会話を続けようとしている。

じゃあ、スペイン語が上達するのでは?!と思われるかもしれないが、蓄積された「基礎」は皆無に等しい。英語のように学校で一から文法を教わったようなスペイン語の基礎が、私にはない。それを独学で同時進行しているが、流暢なコミュニケーションと言うレベルには程遠く、がっくりする毎日だ。しかし、幸いにも読むこと調べること知らないことばかりなので、「オモロイ」と思いながらスペイン語に取り組めているから、英語力の低下ほどの悲壮感はない。これは地道にするしかない。

そして、日本語である。さすがは母国語。全然忘れそうな気配がない。少しくらい忘れてもいいからスペイン語が上達したいと願えども、しっかりと私に身についている。……と思っていたが、先日から三島由紀夫の短編を読んでいて、それを読むにつけ自分の日本語の稚拙さを思い知らされている。漢字も読めないし、熟語の意味もわからない。ちょっとちゃんと読んでみようと、電子辞書を片手に読んでいる。それらの初めて知る言葉の意味のなんと美しいことか。「いや~、三島さん、すごいなぁ。」と、これまたあほのような感想しか出てこないのである。

言語とは一口に言ってみるものの、奥が深い。難しいけどおもしろくて、知っているようで知らなくて、わかったようなわからないようなまったく憎い奴だ。これを何とか操りたいと思うのが、これ人情である。

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