November 29, 2009

多面性

メヒコ人の名前は、とにかく長い。「ファーストネーム・ミドルネーム・名字・名字」と言う感じで、4つくらいある。名字のところは、母親の名字と父親の名字を取っているようだ。名前が長いくせに、名前のバリエーションが少ない気がする。Luis、Jorge、Gerardo、Jesus、Marco……など、2人以上あったことのある名前を思い出すだけでもこんなにもたくさん思いつく。
ところで、この間友だちとメヒコの人々の多面性についての話になった。いろんな人がいるなぁ、と全体的に見たときにもこの国の人の多面性を見ることができるけど、個人に焦点を当ててみてもその中でも多面性を感じるなぁ、と言うことになったのである。そしてそれは名前の長さに起因してるのではないか、と言うのが私たちの意見である。

名前が長いから、よばれ方はさまざまであるはずだ。ファーストネームでよばれるかもしれないし、ミドルネームでよばれるかもしれない。あるいは、ファーストネームを縮めてよばれるかもしれないし、ファーストネームとミドルネームをくっつけて呼ばれている人もいるかもしれない。それらの愛称・あだ名、特にファーストネームでよばれるかミドルネームでよばれるかは、個人間でというよりもコミュニティごとで異なるのではないだろうか。例えば、家ではファーストネームで呼ばれているけど、友だちのグループからはミドルネームで呼ばれている、また別の友だちのグループからはファーストネームで呼ばれている、などである。これは何もメヒコだけではなく、日本でもよくあることだ。名前で呼ばれるか、名字で呼ばれるか、はたまた何かあだ名をつけられてそのあだ名で呼ばれるか、どのようによばれるかによって、そのコミュニティあるいは集団における「自分」と言うものが多少は違ってくるはずだ。それが個人の多面性だと思うのだけれど、日本人が名字と名前と言う2つの名前しかもっていないのに対して、4つの名前を持つメヒコ人である。特に、下の名前(given name)が2つと言うのは日本人にはないことなので興味深い。しかもその下の名前が同格なんである。そのいずれで呼ばれるかは、何によって決まるんだろうか。例えば日本人の名前で、花子・由美という2つの名前があるとする。花子と言う名前に抱く印象と、由美と言う名前に抱く印象はそれぞれ異なるはずである。それがもしも一人の人につけられていたらどっちで呼ぶのであろうか。一方で花子と呼ばれている自分がいて、また他方では由美と呼ばれる自分がいる状況は、自分にどのような影響を与えるのだろうか。その人本人は一人なわけだから、別に何もかわらないと考えられるかもしれないけれど、もしもそれが多面性を与える要因になっているならば、「名字で呼ばれるか、名前で呼ばれるか」による多面性とは異なった多面性がみられるのではないか、と想像する。

そんな風に考えていると、名前って不思議なもんだなぁ、と思う。生まれてきた本人は選べないのである。名字なんてものは代々と祖先から受け継がれて、名前もつけてもらう。それでも、誰かの名前を聞いたときに「ああ、○○っぽいなぁ!!」と妙に納得することが多々あるからだ。

まとまりがなくなってきたので、この話はこの辺にて。

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