April 15, 2011

国際理解

この間、Skypeのキャンペーンのメールが届いた。何でも、そのクーポン番号を入力すれば、世界の40カ国以上の固定電話に無料で電話が1ヶ月間かけられるんだそう。早速使って、日本にかけてみた。無料ならば、とおばあちゃんの家にも電話をかけることにした。

あまりに久しぶりにかけたので、おばあちゃんも最初私が誰だか分かってなくて、「おばあちゃん??」と連呼しまくって、まるでオレオレ詐欺みたいやな、と思いながら、なんとか誰だかわかってもらうことができた。こっちはインターネットの回線を使って、日本の固定電話にかけられるなんて、便利な世の中になったもんだなぁ、とすっかり感心してしまった。こんなところでも、世界の小ささを感じる。

おばあちゃんと話していると、先日の地震の時に世界各国からすぐに日本に救助隊が送られた話になった。そして、その救助隊の中には、メヒコの救助隊も含まれていた。私がメヒコにいるから、メヒコの人たちがはるばる日本まで助けに来てくれたことにおばあちゃんは感動したんだそうだ。私もそのニュースの画像をインターネットのストリーミングのニュースで見たとき、なんだか無性にうれしくなった。

もし、私がメヒコに来ていなかったら、同じようにニュースをとらえただろうか??

とふと考えてみたけど、もしかすると、そこに「メキシコ」という国名を見ても救助隊を送ってくれた国の一つとしか受け取っていなかったかもしれない。私はメヒコに2年お世話になっているという点で、またおばあちゃんは、孫がメヒコに暮らしているのでその名前を聞くと気にかけるようにしているという点で、メヒコに関心を寄せている。もっと平たく言えば、興味を持っている。

私がオーストラリアにいるときに、バッパーで出会ったドイツ人の友だちが、何年か前に日本に遊びに来て再会を果たし、その時におばあちゃんの家に泊まったことがある。日本語が全く話せないドイツ人の友だちと、ドイツ語も英語も全く話せないおばあちゃん。私が間に入って仲介役を務めた場面もあるけど、二人でいたときもどうにかこうにかコミュニケーションをとっていたようだ。その子がおばあちゃんの家にステイしている間に、ALTとして日本で働いていた日系カナダ人と、南アフリカ人の友だちも晩ご飯をおばあちゃんの家に食べに来た。

「どこに住んではるの??」

の質問に、

「泉佐野」

という予想外の答えが返ってきて、おばあちゃん的にはそれがかなりのインパクトだったらしい。

さて、それ以来、である。ただの世界の国の一つだったドイツやカナダや南アフリカが、「気になる国の一つ」に変わったのである。その変化は意識だけの問題である。実際にその国に足を運ぶとか、そういうレベルのものではない。しかし、この意識の変化こそが、国際理解においてものすごく重要なんだということを、今回おばあちゃんと話していて感じた。

今までなんでもなかった国が、「なんとなく気になる国」になって、その国名を聞いたり見かけたりすると、ちょっと立ち止まってみる、耳を傾けてみる、目を通してみる。そうしてその国のことを気にかけていると、意外なところで自分の国と関わりがあることを発見したりする。例えば、すごく小さなことだけれど、スーパーに行って「メキシコ産」と書かれたアボガドを見つける。「●●のいるメキシコではこんな野菜が育つんだな。買ってみようかな」という風にその国のことを考えるようになる。そうして、その国のことをもう少しって、また少しその国が特別になったり、好きになったりする。そういう小さなことの積み重ねが国際理解と呼ばれるものに繋がるのだと私は思う。無知は偏見にしか繋がらないから、相互理解には、まずは知るところからはじめなければならない。

みんなが他の地域や国のことに「興味を持つ」ことが、「姿を知る」きっかけになり、それがやがて、どういう風に関わるとお互いによいのかを考えさせてくれるのではないだろうか。全ての人が互いを気にかけ、助け合うことができれば、それが理想だ。だからこそ、先日の各国の救助隊のすばやい行動には心を打たれた。

おばあちゃんが、こんな風にメヒコやドイツやカナダや南アフリカのことに興味を持って気にかけているなんて知らなかったから、驚いたけどすごくいいことだなと思った。私がそのきっかけになれたのならそれは光栄だし、そういう風にどこかへ足を運んで、そこの現状をその他の人(身近な人から)に伝える人が不可欠だと思った。その数は、きっと多い方がいい。聞くと見るとでは大違いだから。

そんなことを考えさせられた電話だった。

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